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 先ずは、師走ということもありお礼から。
 2012年も多くの素晴らしいライブアクトの数々、ご出演頂いたアーティストの皆様ありがとうございました。

 さて、ここの所、本業であるインタビューを、印刷所の年末進行ということもあり多くこなしています。
 そこで、感じたことですが、3/11以降、再度、シンガーの表現に変化があるのではないかと?ということです。
 3/11当初、この国の危機的状況に“レヴェルミュージック”としての音楽に立ち返るシンガーの動向が多く見受けられました。リクル・マイさん、フライング・ダッチマン等がその筆頭です(マイちゃんの新譜は素晴らしかった)

 暫くすると、この動向を間違えて捉えるシンガーが目につくようになりました。要は「オレが!オレが!」とエゴを出すことと、救いの唄をはき違えている訳です。
 寓話「北風と太陽」にあるように攻的に強いると人は拒むということをまずは理解しなければ。

 先日、新たなるジャズプロジェクト「オールド上海ジャズバンド」のインタビューの際に、フロントウーマンaminの歌唱についてギタリストの富永寛之(exバンバンバザール)がこう語りました。
 「aminの唄を聴いていると、これは良い意味でなんですが、amin自身よりも唄が持つ背景や風景が先に見えてくるんですね。そういう歌手は今、非常に貴重だと思うんです」
 
 1930年代の上海オールドソングスを柱に置くこのバンドの時代背景と、安倍政権樹立目前の今の日本が非常に重なります。
 ここまで閉塞すると、攻的アプローチだけではこの時代を乗り切れないと思う訳です。
 背景に酔いしれることにより音楽が良質のビタミン剤となる時代に移行しているのではないか?と。

 同じく、近日取材した「空気公団」に於いてはフロントマン不在という実に変則的なバンドです。
 しかも、ボーカリスト山崎ゆかりは自分の唄を「ナレーションのように聴いてもらいたい」と言うのです。確かに緻密な物語性を構築したここ2作に於いて、彼女の声は背景の説明として十分な役割を担っています。

 「攻的歌唱→包囲歌唱へ」?
 音楽はまたしても時代の先にその歩調をシフトしているようです。

 キナ臭くなる一方の世相、声を含む音自体の背景を聴くことにより、一時ではありますが音楽は夢を見させてくれるものだと、昨今強く思うのでした。

 来年も夢のあるライブを沢山開催出来るように精進する次第です。

 では、来年も「新世界」で会いましょう!
 

新世界12月店頭展示ポスターⓒエンドウソウメイ

2012月12月25日