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2011/10/03
エンドウソウメイ

孤高の漢(おとこ)が、遂に2011.11/2西麻布に降り立つ。
1971年、伝説の『中津川フォークジャンボリー』から数えて40年。
漢(おとこ)は既にアセンション寸前!訊くも、聴くも正に今しかない!
三上寛の言霊に今共鳴せよ!

※interview.text/エンドウ・ソウメイ

オンリーワンな表現でなければ、世界的アート市場NYでは箸にも棒にも引っかからないという。歌手、役者、詩人、タレントと多くの肩書きを持ちながらも、唯一無比な 芸術家がここにいる。
三上寛。

東北の小さな漁師町、小泊村出身。警察学校中退、上京し板前を志すも”詩人になる” との想い断ち切りがたく、寮を抜け出し詩人、歌手となる。
1971年、伝説の『中津川フォークジャンボリー』での美醜混濁した世紀のパフォーマンスで その名を轟かす。
そんな数多く語られた逸話など今更どうでもいい。
70年代、既にジャンルレス且つアートムーブな傑作『BANG!』(1974年/URC)『負けるときもあるだろう』(1978年/ベルウッド)等をものにしていた三上が、90年代の超多作なキャリアを経、内面の深層に進む速度を更に加速させ、アセンション期を今迎えているのである。
“音”と”言葉”を有機的に同期させ、 自在に操る三上。
その萌芽はやはり、阿部薫、吉沢元治、高柳晶行等フリージャズの巨人を輩出した伝説のライブスポット 『ステーション’70』辺りの ブレーンに端を発するものなのか?

「いや、あの頃は歌手とジャズマンという一線が確実にあったよ。ジャズマンとの交流が始まったのは、デビューして、一時期、山下洋輔と同じ事務所だったからかな? 切っ掛けは新宿ゴールデン街。今、青学かなんかで教授やっている現代詩の詩人がいたんですよ。彼がさかんに『山下は面白いから』ってピットインに私を連れて行って。だから、新宿組でド〜っとフリージャズですね。ミュージシャンとして『よろしくお願いします』みたいな接点はまずなかったと思うな」

怨歌”とも呼ばれる程、土着的作風で一世風靡した三上が、何故ジャズを筆頭に 先鋭的音楽群を安易に受け入れる容量を有していたのか? が、どうにも合点がゆかない。

「私はね、ありとあらゆる音楽がひん曲がって入って来ていてね。ジャズの洗礼を受けたのはジョン・コルトレーンですよね。五所川原高校に、 現代詩を教えてくれたと言うか、自分から門を叩いた泉谷という先生がいて。泉谷先生っていうのは弘前大学を卒業して、本屋もレコード屋も何もない小泊村に 赴任してきたんです。大学も終わって”ゆっくり4〜5年小説でも書いて”なんて思っていたらしいんです。それで、本屋がないので東京の書店に注文する訳じゃないですか。注文の品はなかったんだけど 『こんなのはどうでしょうか?』って送ってきたのがアレン・ギンズバーグの『吠える』。 小泊村にギンズバーグだ!(笑)

小泊村は無医村だから、たまに医者が都会から来て飲み会をやるんだけど、『泉谷君、君、ジャズが好きなんだって?どんなジャズ聴いてるの?』ってその医者が言うんだけど、泉谷先生は『グレン・ミラー最高です』って(笑)医者は『君、あんなものジャズじゃないですよ』って。それで泉谷先生、一転、チャーリー・パーカーですから(笑)バードとギンズバーグですから、小泊村でビートニクが始まっちゃってるんですよ(笑) それ凄い話だろ!(爆笑)

だから、現代音楽とかは新宿時代のオレにはないですけれど、下地としてはビートニクとシュールリアリズムがあったから。文学少年だったからその辺りは既に知っていたんです。ポピュラー音楽にはまだその辺はなかった。シュールなんて言う奴もいなきゃ〜、ビートなんて言う奴もまだいなかったんです。でもオレは、泉谷先生経由でシュールもビートも 知っていた訳ですよ。現代音楽は全然興味なかった。唯一、60年代後半にビートルズの『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』を聴いてね。 頭の中が現代詩だからその辺りやフリージャズは平気で理解出来たね。初期の作品にある程度の完成度があったのは、さっき言った新宿組の後押しとか、完全に孤立して制作していた訳じゃなかったからかな?」

80年代、時代がバブルの風を呼び込むと”怒り”という青年期のコンセプトでは全てが空転する。1979年にその予兆を感じ、一旦、創作活動全てに終止符を打とうと考えた三上に、死にも値する底知れぬ恐怖感が襲う。
音楽が自身へ与えた重さを痛感した瞬間だ。
その後、三上は不思議な行動に出る。
ライブの常打ち箱として吉祥寺『曼荼羅』を据え、月一ライブを敢行。しかもそれは、10年にも及ぶ長期間、セットリストは勿論、曲順すら一切変えずに続けられた。

「だから、探していたんでしょうね。ある種”追い込まれたい”ということでしょうね。別に上の空で唄っていた訳じゃないけど、いわゆる考えている訳なんですね。”なんで唄うんだろう?”という。
10年それやりましてね、最近思い出したのは、その間、何にもしてない気がしてたんだけど、実はかなりのことをしている訳よ。

10年間、毎年10カ所程ですね、今回の津波にあった三陸を廻っていたんです。三陸の独特の景色の中で、そこに住む人達もある種、自分達はいつか津波に遭うということを知っているんです。DNAというか。あの人達は、只、日常を謳歌していたんじゃなくて、ギリギリのアンテナを張ってるんです。それは、当時のオレにとっては謎だったんだけど”何を感じようとしているんだろう?”っていうね。今思うとああいうことだったんですね、おそらく。絶対くる絶対くるっていうその気配がね。失礼な言い方になっちゃうけど、当時のオレにとっては不自然だったの。音楽に対する反応も実に面白いコメントが出るんだよな。

例えば『津波だよな、あの音』とか、そういうフレーズが平気で出て来て。この前も新聞に出ていたけど、気仙沼の片山さんっていうお寺さんがあって、今回流されちゃったんだけど。彼が20年前に『寛さん、実はこの浜で150人が死んだんだよ』と、自作の『海男』を『海に向かって唄ってもらえないか』って言うんで唄ったんだけど、そういうルーツみたいな物を刺激する、過去の記憶って言うのかな?この人達も血の流れみたいなものを感じて生きているだと。 “オレもその辺と繋がらないと分からなくなるな”ってことで勉強というか。古代だったり、ルーツだったり」

90年代に入り一転、三上のリリースラッシュが始まる。

「90年代に入るちょい前ですか、私の過去のレコードが売れているって話を聞く訳ですよ。中古とかでね。私はまったくそのことを知らなかった訳。10年も新曲を書いてないし、タレント業とか文筆とか盛んだった頃で”ぼちぼち路線変更かな?”っと思っていた頃です。

そんな感じで私のファンになったリスナーには実は過去の私の手口は全てバレてるんですよ。彼らはそれを認識して喜んでいるんですよね。カチンとくるんだけど、益々唄う理由が分からなくなってくるでしょ?懐かしのメロディーでも出て単に唄っていれば良いのかもしれないけど、ある種の詩人魂と言うのかな? “これじゃ面白くない!”という。”もう一仕掛けだな”とね。逆にこっちから攻撃して『これでも分かるか!?』ってやる訳さ。そうすると、あきれる奴が半分、食いついてくる奴が半分。それが面白くてやめられなくなっちゃってね。(笑)それ以降は完全な仕掛けとか、くすぐりとかそういう面白さですね。『これなんだか分かるか?』とか、ある種のゲームですね。まったく思いつきで作るんじゃなくて、分かる奴には分かる様に作ってあるんです。『でしょ?』って分かる奴もいます。

そこで分かったのが”音楽は1人分かればいいんだ”ってことです。そんなことを90年代学びました。さっきも雑談でルーツの話をしたけど、80年代は三陸廻り、90年代は少し謎が解けて来てね、10年間アイヌ民族と付き合う様になったのね。

三陸からアイヌに行く過程で三陸の海を見た時”これは海じゃなく、湖だな”と思ったんです。波も何もない海のはずなのに向うに山並みが見える”ここでも古代に暮らしがあったはずだな”と。古代人の知恵とか、オレのじいちゃんも北海道で漁師をしていたし、北海道に行くしかないかなと。そんな時、たまたまアイヌ民族の奴と知り合いになって。彼らの物の考え方、例えば”物は形の通りのことをする”とか。”なんで?”ってことも日常的にある。到着時間を教えなくても駅で待っていてくれたりとか。彼らの独特のインスピレーションとでも言うのか、天と繋がっている感じ?

話は戻るけど、最低一人に分からすためには、血のバイブレーションと言うか”血に訴えかけるしかない”。オレの唄に反応する奴は、どっかオレと血の関係がある訳だ。繋がってるってのが結論な訳。ポピュラーミュージックを完全に無視してすいません(笑) でも、大きく考えるといつかそうなると言えなくもない」

ポップスの構造自体を再構築する力技。確かに、昨今の三上の、琵琶、津軽三味線と類似した音色が混在するグレッジのエレクトリックギターでの弾き語りパフォーマンスは、歌曲の既存概念を覆すものだ。レンジの深い、語りとも唄とも叫びとも選別出来ぬ。あの言霊はどうやって生まれたのか?

「”言葉ってなんだろうな?”っていうことは、自分の身体に訊くしかないという。自分は手を動かすしかないってことですよ。最初っからけっして恵まれていた訳じゃなくて、バ〜ンていう蔵書の中にいてね、たっぷりと調べられるって訳じゃなくて。いわゆるバイトしながら新聞を配達しながらやる訳だから。賭けですわな。間違っている可能性もあるからね。

この前もある人に言われて”そんなこともしていたっけ?”っていうのが、単語書くノートあるじゃないですか。それに1フレーズ書いてどっから読んでも詩になるということしていたらしいよ、オレ(笑)自分の得た知識とか手にした技術というのは、ちゃんと歴史と繋がっていなければいけないってのが私の持論。今の即興の連中を聴くと”つまんね〜な”って思うの(笑)非常に個人で始まって個人で終わる世界でしょ。オレは”絶対繋がれる”と思ってる。そこがちょっと不満ですよね。”歴史=保守”ともなりかねないんだけど、寺山(修司)さんがよく言った『一切の歴史は比喩である』ですよね。

やっぱり、自分の物語を作るということですよね、簡単に言っちゃえば。だから、音楽を作る時は、自分の景色を作っちゃえばいい訳。それは、ある意味で歴史の流れは、やっぱり、チェーンじゃないけど噛み合わないとオレはいけないと思う。私の場合は繋がりますね。その為に20年苦労したんだから。”漁師ってなんだろう?””物を捕るってなんだろう?””海ってなんだろう?””じゃ〜”津波はどうなんだろう?”だから始めから津波はテーマにありましたよね。”うちの爺ちゃん達はどうして暮らしてきたのか?”っていう。”どこから来たのだろう?”と。人前で唄を唄うというのはね〜、後ろから押されてるんですよ。自分が何を背負ってるか気づかないと、声や音が前へ出ませんよ。だから、いくら声楽を学んだって唄にはならないと私は思う。そいつが何も背負ってなけりゃ〜。後ろに見えてる景色、押されてるもの、気配を感じないとね〜。ま〜、一時期はいいとしても、音楽を続けて行くなんて無理だと思いますよ。どんなにへたくそでも”背景背負ってるな”と思う奴は素晴らしいミュージシャンになって行くしね」

想像を絶するこの境地はどのような修練の果てに生まれたのか?
三上がよく口にする”努力を超えた集中力”とのフレーズに確信が隠されていると筆者は思うのだが?

「”努力を超えた集中力”とは、言うならば、ちょっと阿呆臭い感覚ですよ。市川昭介って演歌の作曲家がこう言ってましたよね。『新人のタレントがくると、 その人間の背後に行って、くるっと回してみる。回る奴はスターになる。 回らない奴はダメだ』と。つまり他人に預けることが出来るかどうかなんだよな。回らない奴は我があるんだよ。自分を持っている。そいつはステージ立つ時はダメなのよ。オレが言っている”努力を超えた集中力”って、なんか変なものに全部預けちゃうっていう。だから『オレはやるぞ!』ってのは70パーセントしかやってないんだよね、おそらく。『もういいや』のギリギリのところで100パーセントいってるんだよね。音楽の基本って、深沢七郎さんの著書の中にもあるんだけど(『深沢ギター教室』深沢七郎著 光文社刊)、正宗白鳥 との対談で「土人ってのは一日中太鼓叩いていて、首を斬ってもまだ叩いているらしいよ」ってあるんだけど(笑)それですよ”努力を超えた集中力”とは。それ、集中力とは言わないか?(爆笑)完全にはまってる状態(笑)」

今後、有るであろう『新世界』での三上寛ライブ。当然、”努力を超えた集中力”の語源主は”努力を超えた集中力”の全容を我々に見せつけるであろう。
ジャンルレス、ミクスチャー、コンフュージョン等使い勝手のいい響きに惑わされ、本当の意味の”異種配合”が見えにくくなっているこの時代、敢えてジャンルの破壊者にこの質問を最後に投げかけてみた。

先世紀を席巻し、未だ衰えぬ曖昧なジャンル”ロック”とは何ぞ?

「仏教は元々反逆ですよね、抵抗ですから。最初のロックスターは釈迦ですよ。ドロップアウトの元祖。あの人は黙っていれば王様ですからね。あれが街に降りて来て”なんであの人は乞食なのかな?”とか”なんで病気なのかな?”とか分からなくなっちゃって、自分も乞食やる訳ですから(笑)ドロップアウトの最初ですよ(笑)ロックはキリスト教より仏教の感覚ですよね。だから”死”という概念は2000年間続いたヒットソングですよ。私に言わせればポピュラーミュージックすよね。それを作ったのが釈迦。でね、『じゃね〜よ』って言い始めたのはジョン・レノンだと思う。『死だけじゃない』と。さっきの“努力を超えた集中力”、無意識みたいなもの。その中に真実がある。それは音の中に隠されている」